ねぇ、おかあさん。覚えてるんなら教えてよ。
わたしにはどうしても埋められない記憶の溝がある。
いつか家族で泊まったあの旅館。
家族みんなで……
でもお父さんはいなかったかしら。
場所なら少しは覚えてる。
あの山の裾野の河原のバス停から、
橋を渡って坂を上ったその先を……
木立の中にうっすら浮かび上がるあの建物。
玄関をくぐると、天井からぶら下がった裸電球。
襖一枚で仕切られた薄暗い部屋。
シーツをかける前、奇妙に赤い模様の布団。
階段を降りたところ、長い廊下の先に食堂があって
大きなテーブルの向こうには知らない家族。
箸置きの脇には生卵……確か生卵…。
わたしにはそれ以上のことがどうしても思い出せない。
いったい何をしにあの旅館に泊まったのか。
山に登った記憶はない。河原で遊んだ記憶もない。
だんだんと夢の中の出来事だったように思えてくる……。
ねぇ、おかあさん。覚えてるんなら教えてよ。
わたしにはどうしても埋められない記憶の溝がある。
ねぇ、お母さん。ねぇ、お母さん……。