The road to wisdam? Well it's plain
and simple to express:
err
and err
and err again
but less
and less
and less
(訳)知恵への道? あっけないほどかんたんに言える
まちがえて
またまちがえて
またしてもまちがえて
ちょっとりこうに
またちょっとりこうに
またちょっとりこうに
(ドナルド・クヌース著『クヌース先生のドキュメント纂法』より)
この言葉は、私が熱く敬愛する、津野海太郎さんの『本とコンピューター』という本の中の引用からの引用。私はこの言葉がとても好きで、何かうまくいかないことがあったり、考えが行き詰まったりした時には、いつもこの言葉を思い浮かべるようにしている。 津野海太郎さんはこの本の中で「まちがい主義の系譜」という章を設けて、この言葉が示唆することの大事な意味について、かなりの重点を置いて語っている。
その本の、同じ章からの引用・・・
人間は早とちりをし、かんちがいをし、すぐに飽き、慌てて絶望し、目前の状況にせかされて、へんな理屈をむりやり組み立ててしまう。誤解につぐ誤解、まちがいにつぐまちがい、それが私の毎日である。 と認めた上でいうのだが、だからこそ人間は、あざやかに飛翔したり、矛盾を矛盾のまま保持し続けたり、見えないものを見たり、奥行きのある認識を他人につたえたりすることができるのだろう。「まちがい主義」の観点からすれば、まちがいは人間の無能力のあかしなのではない。むしろ、人間にはまちがう能力がある、といった方が正確なぐらいのものなのだ。いまから十数年前、それまで「まちがってはいけない主義」にとらわれて窮屈な思いをしていた私をいくらか楽にしてくれたのも、鶴見氏が紹介する「まちがい主義」のこの側面だった。
そして私のこれまた大好きな、鶴見俊輔氏の言葉の引用・・・
絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、これらは、われわれの経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、マチガイの度合いの少ない方に向かって進む。マチガイこそは、われわれの知識の向上のためにもっとも良い機会である。したがって、われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、それがマチガイであったなら最もやさしく論破できるような仮説をこそ採用すべきだ。
・・・こういう言葉、ものの考え方ににふれるとほっとする。私はまちがってもいいんだな、ここにいていいんだなって、安心することができる。でも、自分の頭の中のお粗末な回路は、同じ間違いを繰り返して軽率な「エラー音」を鳴らしてばかり。これじゃいつまでたっても「ちょっとりこうに」なれないだろうな。。 少しは前に進まなきゃ。