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Writings

深紅の愛

メキシコ映画『深紅の愛 DEEP CRIMSON』の公開が始まった。リプシュテイン監督の舞台挨拶があるからということなので、今日は劇場に足を運んできた。リプシュテインは、日本でその名はあまり知られていないが、ラテンの巨匠と称されるメキシコの偉大な映画監督。実は私もよく知らなかったのだけど、昨年『大佐に手紙は来ない』という作品を観る機会があった。きめが細かく情感のこもったカメラワークがとても印象的で、人物表現やストーリーも素晴らしい内容だった。
今回の『DEEP CRIMSON』がそのリプシュテイン監督の作品と知らされ、必ず観ておこうと思った。ただ、今回の作品のストーリーが、醜悪な中年男女のディープでヘビイなメロドラマと聞いてもいたので、正直あまり気乗りがしなかった。ところが映画の上映が始まってすぐに、私の先入観は変わってしまった。その流麗で豊かな映像表現はこの作品においても際立っていて、まったくの狂気の物語をひとつの愛の物語として見事に描ききっていた。

この作品は1940年代に実在し、「ロンリー・ハーツ・キラー」として全米を騒がせた男女二人組の殺人犯の物語を題材にしている。舞台は1949年のメキシコ。太った子持ちの看護婦コラルは、雑誌の「交際希望欄」を通じてニコラスという男性と出会う。コラルはすぐにニコラスに愛を求めるが、その夜のうちに金を盗まれて逃げられてしまう。ニコラスは追いかけてくるコラルを毛嫌いするが、カツラをかぶった結婚詐欺師だという事実を知った後も、なお自分を愛してくれるコラルのことが、かけがえのない存在なのだと気づく。やがて互いを深く愛しあうようになる二人は、狂気の殺人を繰り返しながら悪夢のような旅を続くて行くのである……。

愛する対象をずっと求め続けてきた女と、誰からも愛されたことのなかった男が出会った時の、痛々しいほど激しい純愛の物語。監督のリプシュテインが舞台挨拶のなかで語っていた。「どうか皆さん、この映画をご覧になって、この二人の共犯者になってください」と。
あんなにも深くて激しい愛の形、その「共犯者」になれるだけの情熱が、私の内にもあればいいのだけれど…。

ニキータ・ミハルコフの『絆』

ニキータ・ミハルコフ監督作品を特集したオールナイト上映が、テアトル池袋で企画されていたので観に行ってきた。上映作品は、5年ぶりの新作『シベリアの理髪師』『絆(1981年)』『太陽に灼かれて(1995年)』の3本。夜の10時20分に開映で、終わったのは朝の5時半過ぎだった。

ニキータ・ミハルコフは私の一番好きなロシアの映画監督。学生の頃に三鷹にあった名画座で、『機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲(1977年)』という素晴らしい映画に出会って以来、私にとってこの監督の存在が特別なものになってしまった。とにかくその映像が繊細で美しく、ロマンティシズムに溢れた作品だった。最近は作風が少し大味になってきて、詩情が希薄になってしまったが、それでも古き良きソビエト映画の感触を今に伝えてくれる、貴重な映画監督の一人であることに間違いないだろう。

今回、長編作品としては私が唯一観ていなかった『絆』という作品が上映されたのでとても楽しみに観に行った。ミハルコフは19世紀末〜今世紀初頭のロシアに時代設定を置いたものが多いのだが、この作品は初めて彼の同時代を扱った作品だった。
映画の冒頭シーンに、いきなりけたたましく騒ぎ立てるオバサンが出てくる。自分だけ切符が買えないのは不公平だと駅員に文句を言っているのだ。いつものデリケートで優雅な作風とあまりに違う感触に、正直かなり戸惑った。そのオバサン(田舎暮しのマリアという中年女性)が、都会の街に住む娘一家を訪ねていく。その列車の車中、これまた下品で不愉快際まりないオジサンが登場するのだが、その中年男性(リャーピン)とマリアは次第に親しくなる。

やっとの思いで再開したマリアの娘は、けばけばしい化粧をし、派手な服を身につけ、おまけに亭主とはすでに別居状態だった。亭主は見るからに情けない男で若い愛人もいる。孫娘はいつもヘッドホンをつけて耳障りな音楽をガンガン鳴らしまくっている。皆がいつも苛立っていて、なじり合い、奇声を上げ、部屋の内外から騒がしい音が始終鳴り響く。都会の喧噪と空虚な人間関係にすっかり嫌気がさしてしまい、田舎に帰ろうとするマリア。そんな折、車中で知り合ったリャーピンと再会する。
映画は後半になって、その登場人物一人一人がそれぞれ悩みを抱え、傷つき、苦しみながらも、精一杯生きている姿を浮かび上がらせてくれる。とても感情移入できるはずのなかったマリアやリャーピンが、とても実直で美しく、魅力的な人物に感じられてくる。マリアが娘達のためにやろうとしたことが、ますます事態を紛糾させてしまうのだが、それでもバラバラだった人間達が少しづつつながっていくことになる。その展開はとてもドラマチックで感動せずいられないのだが、映像はあくまで淡々としていて過剰な演出もなく、それぞれの個人の素顔を淡々と写し出すだけなのである。

ラストシーンにもハリウッド的なハッピーエンドは用意されていない。いつも傷つきやすくて結び直すのが難しい現代の人間関係を、飾らずに実直に描いていく。それでもミハルコフの視線はあくまでやさしく、愛情に溢れていて、人間の可能性を示している。

……なんて豊かな映画なんだろう。私の大好きなミハルコフ。

赤い小人

両国のシアターχで、『リュシアン 赤い小人』という映画の先行レイトショーを観てきた。ずっと気になっていた映画であったが、期待以上に素晴らしい内容だった。

主人公は、法律事務所で勤勉に働く「小人」のリュシアン。臆病で几帳面な性格ではあるが、繊細で想像力豊かな人物として描かれている。ある日リュシアンは、ふとしたことで知り合った年増の伯爵夫人に、その文筆の才能を賞賛される。はじめて自分を認めてくれる人に出会えたことで、彼は有頂天になる。自分とはまったく懸け離れた彼女の存在が、リュシアンの目にはこの上なく魅力的に映ったのだろう。その妖艶で巨漢の風貌と豪奢な生活習慣にも魅了され、リュシアンは伯爵夫人との情事に没頭するようになる。リュシアンは伯爵夫人を深く愛するが、やがてその生活は破たんする。伯爵夫人はリュシアンを遊び相手としか思っていなかったのだ。深く傷ついたリュシアンは、生活の気力をまったく失ってしまい、退廃的で荒んだ生活に落ち込んでいく……。
そんな時彼を救ってくれたのが、以前サーカスで知り合ったブランコ乗りの少女、イジスだった。同じ背、同じ目の高さのイジスを、リュシアンはこの世界の唯一の理解者としてかけがえなく思い、イジスはリュシアンの心の奥底にある優しさを感じ取り、心から愛するようになる。そして二人は同じ目線の大勢の子供達と共に、王様の行進のような威厳と喝采の中で、光に満ちた世界へと踏み出すのである…。

監督はベルギーの新人で、初長編作ということであるが、映像に力があり、不思議な余韻がしばらく後をひいた。途中の奇妙なストーリー展開と、毒々しいユーモアにも圧倒されるものがあった。「小人」という過酷な運命がこの物語の題材になっているが、一個の人間が自分本来の視点を取り戻していく過程がドラマチックに描かれている。自分が周りの人達とどこかしら違う存在に思え、所在のない存在感を抱き、劣等感に苛まれ、卑屈な意識の芽生えてしまった人であるなら、この物語は切実な共感をもって受け入れられるに違いない。

無理に背伸びすることなく、高見から見下すこともなく、大切に想う誰かと同じまなざしで世界を見渡すことができたなら、その時世界はどんなに輝いて見えることだろう…。

海岸の砂浜で逆立ちしたリュシアンと、うつ伏すイジスが見つめ合うシーンは、切ないほどに美しかった。

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