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Writings

ハンガリー映画『ハックル』

赤坂の国際交流基金フォーラムで、昨日から「ハンガリー映画祭」が始まった。映画祭といってもたった5日間の上映期間。仕事は立て込んでいるのだけど、私はどうしても行きたくって、昨日なんとか時間を作って観に行ってきた。

昨日観たのは、ハンガリーの新人監督、パールフィ・ジョルジの『ハックル』という作品。舞台はハンガリーのどこかの片田舎。村の人たちの日常生活や、のどかな自然の風景を切り取った映像が、非常に個性的なカメラワークで延々と続いていく。これはドキュメンタリー? と思いきや、不可解な連続殺人事件が静かに進行していく。台詞はほとんどなくて、いっさいの説明もなく、のどかな田園風景の映像の背景で、謎のストーリーが展開していくのだ。まるで隠し絵のような手法だ。とても変わった映画。でも、とてもいい作品だった。

あぁ、それにしてもハンガリーの風景、人、音楽、それらすべてが、なんて素敵なんだろう。何の理由も根拠もないけど、ずっと前からハンガリーという国への憧れを抱いている。その気持ちは何年経っても薄れることなく、私の中でその想いがますます募っていくようだ。何が私をこんなにも魅了するのか? やっぱり一度は行って確かめてみたい。仕事がんばって、お金ためて、必ず行こう。新しい目標ができた。

ネズの木

友人からプロジェクターを譲ってもらった。かなり旧式のものなので機体が大きくて重量もあるので、昨日わざわざレンタカーを借りて引き取りに行ってきた。さっそくスクリーンを設置して音源をアンプとスピーカーに繋いでみたら、ちょっとしたホームシアターに早変わり! なんだかとてもわくわくして、すぐに上映会をやってみたくなった(といっても一人でなんだけど)。

まず何を観ようかさんざん悩んだ末、DVDを買ったまままだ観ていなかった、『ネズの木』という映画を選んだ。1986年、アイスランドの映画。監督はニーツチェカ・キーン。二十歳の時のビョークが出ている幻の作品として、2年前にロードショー公開されて話題になった。
私としてはビョークが主演しているということより、「〈グリム童話〉本来の形---残酷性、エロティシズム、理不尽な悲劇、といった要素を忠実に再現した作品」として評価を受けていたことに関心があった。観よう観ようと思いながら、忘れてしまっていたこの映画。期待外れにならないか心配だったのだけど、びっくりするくらい素晴らしい作品だった。背筋がゾッとするような残酷なモチーフを散りばめたストーリー、全編モノクロームの美しい映像、そして何より音楽が素晴らしかった。何とも形容しがたいビョークの特殊な存在感も際立っていた。

私の大好きな映画の一つ、メレディス・モンクの『Book of Days』の世界観にちょっと重なるものがあった。西欧中世の村をイメージした殺伐とした風景が、何故かしら、いつも私の心をゆさぶる。こういう映画をずっと観たいと思っていた。大満足。

アメリ

銀座に出かけた折、レイトショーで『アメリ』がやっていたので、ちょうどいい機会と思って観て来た。この映画を私は公開前からずっと楽しみにしていたのだけど、あまりにもたくさん人が入るものだから、なんだか足が遠のいてしまっていた。根がひねくれているものだから、たくさんの人が同じ方向を向くようになると、もうそこには関心がなくなってしまう。でもこの作品の監督は、ジャン=ピエール・ジュネ。私のとても好きな監督のひとり。観る前から、私の期待は相当なものだったのだけど、実際に作品を観てそれ以上に感激してしまった。とても素敵な映画。

ひどく内気な女の子が、ある時あるきっかけから、他人の人生をほんのちょっと幸せにしようと意を決することから、この物語が始まる。彼女がちいさな作戦を思いつき、それを実行した時、その周りの世界がポツッ、ポツッと明るくなる。その光はとてもちいさくてはかないものだけれど、私たちの世界にかけがえもなく大事なものだと気づかされる…。
「観た人が幸せな気分になるような映画を作りたかった」と、監督本人がコメントしている通り、この映画を観終るとなんだかとてもあたたかい気持ちが胸の奥に込み上げてくる。人生に必要なのは、品のない笑いやしみったれた慰みものや、お手軽な「癒し」なんかじゃない。ほんの一瞬、世界が輝く場面に立ち合うことができたなら、その記憶を心にとどめていられたなら、人はたいていの苦しい場面も我慢して生きていけるのだと思う。

自分の周りの世界をほんのちょっと明るくするために、私たち一人一人が自らの小さな灯を掲げれば……その時、世界はどんなに美しく輝くことだろう…。

フォレスト・ガンプ

テレビをつけたら『フォレスト・ガンプ』がやっていた。散らかった部屋を片しながら、どうでもいい気分で観ていたら、思いがけず面白くて見入ってしまった。この映画の公開当時、世間でやたら騒がれていたけれど、私はとても観る気になれなかった。全く関心がなかったので内容も知らなかった。卓球に汗を流す青春映画かと思っていたらまったく違っていて、きちんとしたテーマ性のある作品だった。とてもよくできた映画。私はよく知らないのだけれど、この映画の公開当時、この作品本来の意図について、ちゃんとした紹介のされ方をしてただろうか。だいたい「一期一会」なんていう余計な副題をつけるからうさん臭く感じてしまうのだ。「一期一会」という言葉とこの作品との関わりが、私は今にいたってもまったく理解できない。

この映画のことをもう少し知っておきたいと思って、ネットで検索をかけたら、その原作についての文章をつづっている人がいた。その人はこの作品を、「ほらふき男爵の冒険」の現代版---と解釈していて、その言及は私も的を得てると思った。
この作品の主人公がアメリカンドリームを実現していくストーリーは、映画の中でも主人公が語る「ほら話」として扱われている。映画という虚構の世界の中に、また虚構の世界が内包される。その仕組みに気がついてはじめて、この作品本来のテーマが見えてくる。あのとてつもない「ほら話」を紡ぎ出す能力によって、主人公は最愛の人と再会する運命を引き寄せる。私たちの日常的な価値観や常識の世界から、ついに抜け出してしまうのだ。何よりそのことに感動させられる。

「ほら話」を紡ぐ能力とは、「夢」を見続ける力なのだと私は思う。「現実」という名の鋳型に「夢」を押し込んでしまうしまうのではなく、私たちが頑固に「夢」を見続けることによって、「現実」の世界を編み変えていく。そのような壮大な試みだと思う。
この映画の原作を読んでみたいと思った。

映画『ボンベイ』

1995年のインド映画『ポンベイ』を観た。ヒンドゥー教徒の主人公とイスラム教徒のヒロインが、周囲の反対を押し切って結婚する。自立して幸せな家庭を築くが、1992〜3年のヒンドゥーとムスリムとの武力衝突に家族が巻き込まれる悲劇を描いた作品。
映画としても洗練されていて、そのドラマティックな展開にとても胸を打たれる。うっとりするほど美しいシーンがたくさんあるのだけれど、もう一方で描かれる暴徒の凄まじさに、だんだん心寒い気持ちにもなってきた。単にスクリーンの中での出来事して楽しんでいられなくなった。この余りに悲惨な歴史上の事件に、「どうして?」と思わずにいられない。

この事件の史実について、私はほとんどその知識がない。正直な話、アジア諸国の社会情勢に疎いし、それぞれの歴史や文化のことを、さほど深く知ろうともせず今まで過ごしてきた。「宗教対立」という言葉を聞くとすぐに、「ああ、また始まった。なんて厄介な問題」と思ってしまう。私だけでなくたいていの日本人がそうなんだろう。でも実際に起きている「対立」の中身やその社会的な背景をきちんと見ていくと、きっと違う局面が見えてくるに違いない。最近そのことを反省していて、「中東」と呼ばれてしまう国々のことも、イスラムのことなども、もう少しちゃんと知っておきたい思うようになった。同じアジアの住人として、風土や歴史、習慣や宗教が違っても、もっと深いところで理解し合えることがたくさんあるはずなんだから。

先週日曜日も『いまイスラム社会の映画から見えてくるもの』という講演を聞きに行った。その時の講師ナギザデ・モハマッド氏が、熱のこもった声でこんなことを語っていた---
「皆さんはすぐにイスラム世界ってひとまとめに言うけれど、たとえば西洋人が日本人のことを知ろうと思って仏教を勉強したって、日本人を理解したってことにはならないでしょう。イスラムを信仰してる人達も、みんなそれぞれいろんな価値観があって、いろんな生き方をしてるんです」
「大国が唱える”グローバリズム”という一元的なシステムではなく、多様な価値を認め合える多元的な世界を構築しないといけない。それが私たちにとっての幸せな世界を築くための第一歩です」

アラビア語の「イスラム」という言葉は「平和」を意味する「サラーム」という言葉から派生しているのだそうだ。しかし多くの日本人がイスラムの世界に対して抱くイメージは、「物騒な宗教」「怖い宗教」というものでしかない。わたしたちは彼らのことを、実際何も知らずにいたんだと思う。このような知識の欠如、無関心、配慮のなさが、すべての諍いの根幹にあるんだと思う。
「イスラム」とか「中東」といった、大雑把な概念を物差にするのではなく、その国のこと、その土地のこと、そこに住む人々のこと、その一つ一つにまなざしを寄せることが大事なんだろう。あらためてそんなことを、思い直したりした。

(2002/3)

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