先日書棚を整理してたら、サン=テグジュペリの『星の王子さま』にふと目がとまって、ひさしぶりに本をひもといてみた。私は、この本の中でとりわけ、キツネと王子さまが会話するくだりが好きだ。
「おれは、毎日同じことして暮らしてるよ。おれが牝鶏をおっかけると、人間たちがおれをおっかける。牝鶏たちはどれもみんな似たり寄ったり。人間もまたみんな似たり寄ったりで、おれは少々うんざりしてしまう。だけどもし、あんたがおれを飼いならしてしてくれたなら、おれはお日様にでもあたっているような、明るい気持ちになるだろうな。足音だって、今までとは違うものを聞き分けるようになるんだ。他の足音がすると、おれは穴の中にすっこんでしまう。でも、あんたの足音がすると、おれは音楽でも聞いてるような気持ちになって、穴の外へ飛び出すだろうな。
それに、あれを見なよ。向こうに見える麦畑は、どうだね? おれはパンなんか食やしない。おれにとって、麦なんて何の役にも立ちゃしない。だから麦畑を見たところで、おれは思い出すことなんて、なんにもありゃしない。それどころかあれを見ると気が塞ぐんだ。だけど、あんたのその金色の髪は、うつくしいなぁ。あんたがおれを飼いならしてくれたなら、それは素晴らしいことだろうなぁ。金色の麦を見ると、おれはあんたを思い出すだろう。そして、麦を吹く風の音も、おれには心地よく感じるだろう‥‥」
ここに引用した中で「飼いならす=apprivoiser」という言葉は、ちくま学芸文庫の『おとなのための星の王子さま(小島俊明・訳)』に従ったもの。この場面、岩波版(内藤 濯・訳)は単に「仲良くなる」となっているのだけど、小島俊明は(原文に則すると)この言葉にこそ、作者の人生哲学が秘められていると注釈している。
悲しかった王子さまは、キツネと最初に出会った時、性急に「一緒に遊ぼうよ」と呼び掛ける。でもキツネは、「おれは、あんたと遊べやしないよ。飼いならされちゃいないんだから」と言って、王子さまを突き放す。王子様は「飼いならすって、どういうこと?」と質問するが、キツネははぐらかしてばかりでちゃんと答えようとしない。執拗に食い下がる王子さまに、やっとキツネは「きずな(=liens)をつくる、ってことさ」と、再び謎の多い言葉を残すのである。そして、「きずなをつくる」には「辛抱が大事」と補足する。この辺りのキツネと王子様の会話は、言葉通りの意味ではなく、詩的な表現として受け止めるべきなのだろう。作者の真意は捉えきれないけれど、「自分が大切に思う対象に対して、どれだけたくさん自分の時間を費せるかが大事」という意味なのだと、私は解釈している。
結局、「きずなをつくる」ための充分な時間を持てない王子さまは、キツネの前から去ってしまう。キツネは王子さまとの別れの場面に至ってようやく、「大事なこと」を教えようと、語り始める。
「さっきの秘密を言おうかね。なぁに、なんでもないことさ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。大事なことはね、目で見えないんだ。人間たちは、この大事なことを、忘れてしまってる。でもあんたは、この大事なことを忘れちゃいけない。あんたが飼いならしたものに対しては、いつまでも責任があるんだよ。守らなければいけないんだ‥‥」
私はこの場面を読みながら、キツネの心情を思いやると、いたたまれない気持ちになる。誰かのことをかけがえもなく大切に想うということは、きっとこういうことなんだろうなって思う。何度読み返しても、この場面のキツネのことばが心に響く。
※イラストはずっと前に描いた「わたしの畑で」という絵の一部分。麦畑のイメージで。