ハダカになれないサル

先週末の2/26(土)、粟津ケンさんが三軒茶屋に創設したアートスペース「KEN」のオープニングイベントに行ってきた。記念すべき第1回目のイベントは、言語学者・文化人類学者の西江雅之氏による即興ライブ・トーク「装う、音、旅」。様々な文化について根源的な考察を、縦横無尽に語ってくれた。
 

この日のライブ・トークは「ハダカになれないサル」というタイトル。「"装う"とは如何なることか」という話題が今回の中心となるテーマ。まず、「ハダカ」とは如何なる状態なのかが問われる。「ハダカ」はまったく衣服をまとっていない、肌がすべて露出した状態のことではない。たとえ衣服や身体的な装飾をすべて取ったとしても、髪型や爪の形、肌の色等、依然として装いを身にまとっているのであり、人間は「けっしてハダカになれないのだ」という指摘が、とても刺激的だった。

そして、「装い、衣服」の起源を、その機能性(体温の調節や、急所を守る等)や、社会性(身分を視覚化するユニフォーム等)、宗教性(祭事的な役割や、宗教的な象徴表現等)などに根拠を置くこれまでの仮説は、そのほとんどが間違いであると論理的に解説してくれた。"装う"ということは機能や意味から説明しきれるものではなく、人間にとって最も重要なもの(=「食べ物」「性」「人間関係」)と深く結びついているのだと語ってくれた。
 
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西江さんの話の中で、私が特に印象残った話。
一糸まとわず...ではなくて、一糸のみをまとった装い(つまり紐1本のみが衣装)の民族の場合、それは必ず横1本であって、縦や斜めがけというケースはまったく事例がないそうである。そしてその腰に巻いてある紐1本の高さは、その集団の中できちんと取り決めがあって、それが数ミリ上の位置にあると「あいつツッパってるな」とか、少し下だと「アイツはだらしない...」とか見られたりするのだそうだ。腰紐一本にまつわるエピソードを聞いて、つい笑ってしまったけれど、実はそれこそが私たちの「文化」の正体なのだろう...。誰もが学生時代に、制服のズボンの太さやスカートの長さとか、どうでもいいことに夢中になっていたこととまったく重なる話だと思う。私たちの社会のいろんな場面に、思い当たることがたくさんある。
 
世界の秘境の果てまで旅して歩いた西江さんの言葉は、明快で力強く、そして痛快(!)である。そして、私たち人間は文化的存在であると言ってみたり、個々の文化を高次であるとか未開であるなどのレッテルを貼ることが、いかにナンセンスであるかを気づかせてくれる。ある集団の中での「文化」が、違う集団の中では何の意味も持たない場面が多々ある。「文化」と呼ばれているものの中身は、そのほとんどが「どうでもいいこと」であって、そこに合理的な意味合いなどあまり存在しないのだ。

文化とは何か。西江さんの言葉によると「ある特定の時代、特定の土地に生きる人々は、"どのようにか生きている"。その"どのようにか"が文化である」。
 

あまりにも内容の濃い話で、私の中ではまだ全然消化できていないのだけど、その"どのようにか"という言葉の触感を、こうやって文章書きながら思い出してみた。
 
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↑西江さんが世界各地を取材し撮影した、様々な"装い"の有り様。その豊かで斬新な発想力に、ただただ驚愕するばかり。。
 
西江雅之さんのライブトークは、あと2回開催されます。本当に素晴らしく刺激的な内容ですので、ご都合つきましたらぜひ足を運んでみてください!
★「KEN ケン」のHP→http://www.kenawazu.com/