絶対観ないと決めていたのですが、観てしまいました「映画 ゲド戦記」・・・。
「映画 ゲド戦記」に対して、私は、制作発表の当初からポスターや予告編で見る絵もコピー文も全てに違和感を感じましたし、その後追々知ることになった製作に至った経緯を聞くにつけてうんざりした気分になりました。どう考えてもこれは「ゲド戦記」ではないし、良い作品になるわけがないと思っていました。原作に思い入れの深い一人として、絶対に観る気はなかったのですが、その後いろんな場面でこの作品の是非についての議論されるのを見ていて、だんだん興味が湧いてきたのです。
とにかく作品を実際に見ないことには何も言えないので、いろんな先入観をいったんリセットして(完全には無理ですが)、とにかく見てみようって思ったのです。
で、率直な感想ですが・・・思っていた以上に、作品として内容の悪いものでした。
原作と違うとか、表現が拙いとか、そういう意味でだけダメと言っているわけではないのです。映画と原作が違うのは仕方ないことですし、場合によっては大胆な組み替えをしてオリジナルに近い作品にしてしまう場合だってあるでしょう。でもそれは制作者側に、作品の解釈と表現の意図が明確にあることが大前提だと思います。「映画 ゲド戦記」には、そういったものがまるで感じられません。原作に対する誠意も、まったく見受けられません。そして作品の内容自体に、たくさんの問題がある作品だと思いました。
この映画について、原作者であるアーシュラ・K・ル=グウィンから、自身のHPで公式なコメントが出ています。翻訳のページにもリンク貼ってみますので、ぜひ読んでみてください。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse
↓以下、かなり批判的な私の勝手な感想ですので、ご了承ください。
■何故観ようと思ったか
公開から1ヶ月以上が経ちますが、当初から酷評の嵐でした。批判してる人の大半は「原作と違う」とか「これはジブリアニメじゃない」「宮崎駿の作品に足許に及ばない」とかいう内容のもので、ピントの外れた話でした。その後にわかに擁護する人達が増えていって(自然にか、戦略的にかはわかりません)、お互いが激しく議論する場面もたくさん目にしました。不思議に思ったのは擁護派の人達で、普通に「面白かった」という人はもちろんいるのですが、特別に感情的な思い入れでもってこの映画を絶賛する人達が現れたり、批判に対する批判を、声を荒げて叫ぶ人達が多数現れたことでした。そういう人達がわざわざ原作のファンたちが嘆き悲しんでる場にまで踏み込んでいって、持論を展開する場面を見て、これはちょっと異様なことだなって思いはじめたのでした。そんな矢先、ル・グウィン本人が自身のホームページで、この映画の対する公式なコメントを発表し、そのあとに追記の形で掲載された「ある日本の投稿者から」という文章を読んで、なるほどなーと、考えさせられました。
http://hiki.cre.jp/Earthsea/?GedoSenkiAuthorResponse#l9
いったいこんなにも議論の対象になる「映画 ゲド戦記」はどんなものなのか、だんだん関心が芽生えて来ました。とにかく作品を観ないことには何もわからないので、勇気を持って観てみることにしたのです。
私は最初に、作品として「悪い」と言いましたが、いっさいの先入観外して観ればそこそこのレベルの普通の娯楽映画だと思います。でも「ゲド戦記」というタイトルを掲げ、ジブリブランドを全面に押し出し、これだけの大作の扱いで公開された映画としては、やっぱりたくさん欠点のある映画だと言わざるを得ません。
■作品のテーマについて
まず、テーマもストーリーも、まったく納得できるものではありませんでした。
せめてこの映画がまったくのオリジナルエピソードとして、原作から孤立してくれたらまだ観られなくもない気がしますが、でもやっぱりどんなに大目に見ても、この映画は原作世界の精神からからあまりに大きく逸脱しています。この「映画 ゲド戦記」は、まぁ、簡単に言ってしまうと、勧善懲悪を軸にした少年の心の成長の物語ということなんでしょうか。そこにいろんな要素を詰め込んではいますが、そのほとんどが未消化、未解決のうちに作品が終わってしまっています。映画の冒頭で、「世界の均衡が崩れている」という大風呂敷を広げてみせますが、それで結局その問題はどうなったのでしょうか?世界のどこかに、悪玉の親分がいて、そいつをやっつければすむ問題なのでしょうか?そんな簡単なことで、世界は、人は、救われるんでしょうか?償いは後ですれば、人生はどうにでも清算できるものなのでしょうか?
結局は自分や自分が愛する対象を脅かす存在をなくしてしまえば世界は平和になる・・・という安直な結末の付け方が、むしろ危険な考え方にさえ、私は思えてきます。
少年の心の成長ドラマに目を移しても、その過程がまったく描けていません。アレンとテルーの心の溝を取り払ったのは、テルーが草原で歌う独唱(しかも曲の2番まで完唱!)だけだし、アレンが自分の内側の闇の部分を受け入れ、自分を取り戻すのも、テルーから背筋を正される言葉を言われただけ。まったく説得力がありません。分裂していた「自分の影」って何だったの?って問題もまったく説明も解決もないし。映画の中で見る限り、「影」って結構いい奴じゃん、って私は思ったし(笑)。
今回の映画は3巻を中心にしたにも関わらず、1巻の「影との戦い」の要素を入れたり、4巻の登場人物を引っぱって来たりしていますが、そのことについて、宮崎吾郎監督はこんな風に語っているようです。
宮崎吾郎:「初期のゲド戦記は、特に1巻『影との戦い』に顕著ですが、人の心の中の光と闇の均衡が云々、という話です。ただ、確かにそれが必要な時代があったのかもしれないけれど、今はそれが行き過ぎて神経症的になってしまう人がいっぱいいる。そこで面白かったのが、初期から時期の空いた4巻以降はだんだんそういう内面テーマを離れ、変わり映えしない日常を生活者として暮らす中にこそ大事なことがある、という方向に変わっていくんですね。改めて読んでみて、今はそっちの方が必要なんじゃないかと感じたんです。」(e-hon news 2006 Aug. 4号)
ここで監督自身が語ってることは、監督がどういう風にゲド戦記を読んだかが伺えて、大変興味深いです。 「今はそれが行き過ぎて神経症的になってしまう人がいっぱいいる」と言っていますが、そうではなくて、そういった心の葛藤を経過しないで大人になってしまう人がたくさんいるのが問題なんじゃないでしょうか。心の葛藤を後回しにして、単に生活の中での心の豊かさを求める("ロハス"とかってやつでしょうか?)のは、ただの思考停止状態です。
「生きる根拠を見いだすのが難しくなった時代に、自分を取り戻して、まず一個の人間として生活してみることが大事」というメッセージを託したこの作品のテーマ自体は、悪いものではないと思います。原作とはあきらかに違うテーマ設定であっても、それはそれで良いと思います。でもそのテーマを語るための作品としての一貫性を、決定的に欠いてると思います。全ての辻褄は、「映画はエンターテイメントであること」という、この監督の1点の信念によってつなぎあわされてるとしか思えません(その監督の信念はこういった文章から垣間みられます→監督の日記)。もちろんエンターテイメントを志向することが悪いわけではありません。それはその作家の資質なのですから。でも作品の根拠がエンターテイメントという足場にしかなくて、作品のテーマに基づいた論理がほとんど見いだせなかったのは残念なことでした。
■オリジナリティについて
「これはジブリアニメじゃない」「宮崎アニメじゃない」という批判は、私は基本的に見当違いだと思っていました。親子であれど、宮崎駿と宮崎吾郎という人間はまったくの別物だし、同じスタジオで作るからといって、同じ内容、同じ資質を求めるのは間違いだと思ったからでした。当たり前の話です。でも実際に作品を観てびっくりしたのが、宮崎駿作品をなぞったようなシーンがあまりにも多いことでした。ジブリ作品へのオマージュ、というにはあまりにも表現がストレート過ぎて、稚拙で、意地悪な見方をすれば「これはジブリ作品のパロディ集?」と思えてしまうくらいでした。ジブリアニメを期待して(あるいは勘違いして)劇場に足を運んでくれた人への、ある種のサービスのつもりなのかもしれませんが、こういうことを意図的にやってるからには、「これはジブリアニメじゃない」「宮崎アニメじゃない」という文脈で批判されるのは仕方ないことだと感じました。
もう少し監督自身のオリジナリティを垣間みさせてもらえたらと願ったのですが、私にはそれは見つけられませんでした。実際に「映画 ゲド戦記」を観てみて、一番がっかりしたのが、この点でした。今回は商業的な必然があったのだとしたら、次は宮崎吾郎という作家性を、きちんと示してくれる作品を見せてくれることを期待したいです。
■物語ということについて
ずっと以前に「ディズニーの功罪」と題された論文(アメリカの図書館司書経験のある方ディズニー絵本がいかに有害であるかを論じた文章)を読んだのですが、図書館で毎日たくさんの子供たちと接してるなかで、ときどき子供たちから涙の訴えを聞くのだそうです。「本の中の世界ではみんな最後は幸せに生きていて、世界は平和になるのに、私にはどうしてこんなに悲しいことがずっと続くの?」・・・と。そんな訴えに、私たちはどんな言葉を返せるでしょう・・・。
安直な構造の物語を用意して、甘い誘惑でそこに人々を迷い込ませるのは、大変重い罪だと思います。心に豊かさをもたらす、あたたかくて優しい物語は、人間にとって必要な糧です。でもそこから現実の世界に立ち向かっていける何かしらの手がかりを、物語を紡ぐ人達は自身の作品世界の中にきちんと責任を持って用意すべきだと、私は思います。
原作のゲド戦記は、当初3部作まででストーリーは完結していて、ゲドとアレンはさいはての島まで旅をし、ゲドの魔法使いとしての全ての力を出し尽くすことよって"両界の扉"を閉じさせることができ、世界は"均衡"を取り戻すことで幕を閉じます。しかし現実には相も変わらず世界は不安定で、戦争と殺戮は繰り返され、身近な場面でも残酷な暴力が耐えません。そのことに目をそらさず、「ゲド戦記」という作品な中でも作者自身が向き合っていく意志によって生み出されたのが、ゲド戦記の第4巻「帰還」だったのだと思います。物語世界からの現実の世界への「帰還」だったのだと、私は解釈しています。ですので、「帰還」の内容は非常に重い内容で、現代の現実の問題を色濃く反映しています。テルーは「映画 ゲド戦記」では顔に痣があるだけの表現になっていますが、原作のテルーは、幼い時に両親とその仲間の男たちから残虐な暴力を受け続けレイプされた上に火に放り込まれて瀕死の重傷を負ったため、顔半分はケロイド状に焼けただれ、片手は指がくっつき鍵爪のような状態になっている設定です。原作の通りにやってくれとは言いませんが、原作の精神を、ほんの少しでも汲んでくれたら、まずあんな作品にはなっていなかったと思うのです・・・。
それにあの映画の中でのゲドやテナーは、いったいなんなんでしょう?ゲドは大賢人ということになってるけど、それを感じさせるシーンはまったくなかったです。ゲドとテナーが再会するシーンは、特別な意味があるはずなのですが、あれじゃ、港々にいる女のところに通ってるただのオジサンではないでしょうか。フーテンの寅さんがまた旅から帰って来て、「もぉ、お兄ちゃんはしょうがない人なんだから・・・」といって受けいれるサクラの役がテナーですかね。二人で「ゲド」「テナー」って呼び合ってるシーンでは、私は椅子からズルって落ちてしまいましたよ。本当に。
■作画や演出について
作画については、色が暗すぎるとか、繊細でないとか、絵が下手とか、いろいろ批判が多いのですが、私は、まぁそこまで悪くはないと思います。場面場面でムラがありますが、そこそこのレベルを保ってると思います。経験のない監督を据えたスタジオの職人たちの苦労は大変なものだったと察しますが。でもそれでも一定のレベルを維持できたのは「スタジオ・ジブリ」のスタッフたちの底力だと思います。
ただ、生活描写などの細やかな演技がとても下手でしたね。食べものを食べるシーンって、とても大事だと思うのですが、全然美味しそうに見えないのが残念でした。ハムかパンかさえ見分けがつかなかったり、スープとか泥のようだったり。「ハイジ」で焼いたチーズをパンにのせて食べるシーンなんて、今見ても「わーっ!食べたい!」と思わせるんですけどね。畑仕事のシーンとかも、まったく魅力ないし。そもそも畑仕事に出て行く動機付けが描かれていません。
背景の美術についても、色が濁りすぎてるとかいろいろ言われてるようですが、私はあれはあれでいいと思います。ただ、物語の世界をほとんど絵だけで描ききってるだけで、撮影の工夫とかで奥行き感を表現してるようなシーンはほとんどありませんでした。ポートタウンの全景も夕焼けのシーンも、美しいのですが絵だけの世界なので、私は何の感慨も湧かなかったです。クライマックスの舞台となるお城も、工夫は感じられますが空間が描けていないし、城全体の構造としての説得力がありません。「カリオストロの城」や「長靴をはいた猫」を意識してるのはわかるのですが、平凡なものだったと思います。階段を駆け上がるシーンなんかも、止まった絵の上を人物が動くだけなので、臨場感とかまるで伝わってきません。
些細な指摘ですが、そういう部分が大事な「演出」なのだと、私は思います。
■総括として
繰り返し言いますが、私は原作と「映画 ゲド戦記」が別物であることだけに批判の根拠を置いていません。ただ「ゲド戦記」というタイトルを掲げる以上は、それなりに制作者としての誠意を示して欲しかったのですが、それが微塵も感じられなかったのは残念なことでした。そしてその理由が、監督の力量不足であるとことではなく、明確な意図でもってねじ曲げられたことが、私にとっては想像以上にショックな出来事でした。
私にとって、そして多くの人にとっても、「ゲド戦記」は特別な本です。読んでみたら面白かった、という程度のものではなくて、人生に少なからぬ影響を与え、ゲドたちの物語の存在が今も自分の内側に生きていると感じられる、そういう本です。最初の本が出てから40年もの月日が流れ、その本とともに生きてきた作者と読者がいるのです。そのことを軽んじて欲しくなかったと訴えずにはいられません。
まぁ、いろいろ書きましたが、こうやっていろんな人に「一言いわせたくなる」作品であることは確かですし、そういった意味ではユニークな作品だったと思います。テーマについても、私には安直すぎてまったく受け入れられませんが、あのくらい単純にしてストレートな言葉にした方が、現代の若い人には伝わりやすいのかもしれません。ただ、そうやって単純なメッセージを明確な言葉にできる根拠が、どれだけあるのかは大いに疑問ですが。
ひとつはっきり言えることは、単純な言葉と、単純な構造のメッセージしか、人が受け取れなくなっているのだとしたら、それは一つの作品の善し悪しを論じるとは別の次元で、深刻な事態だと思うのです。そのことを考えてみたくて、こうやって無駄に長い文章書いてみました。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。機会ありましたら原作の「ゲド戦記」を手に取っていただければ幸いです。
■おまけ
「映画 ゲド戦記」の感想から脱線しますが、この映画観て、私は「アリーテ姫」というアニメーション作品のことを、ふと思い出しました。「アリーテ姫」は小粒ながらとてもよくできた作品です。映画「ゲド戦記」とはいろんな意味で----作品のテーマもスタンスも、作画のレベルも、アニメーションの技法も、そして作品の質そのものが!----対極にあるように感じたのです。あまり知られていない作品ですが、私はもっと高く評価されて良い作品だと思っています。映画「ゲド戦記」の上映館の、ほんの数パーセントでもいいからこの作品の上映に当ててあげた方がいいと、私は思うんですけどね。レンタル屋さんとかでたまにみかけるので、ご興味ある方ぜひご覧になってみてください。
「アリーテ姫」公式サイト→http://www.arete.jp/arete/
円卓
私は原作をまったく知らずに観たんですが、概ね同感です。
こりゃ酷い映画だと思いました。(^^;
エンドロール見るとわかるんですが、
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン (ゲド戦記)
原案:宮崎駿 (シュナの旅)
ってなってまして、二つの作品を混ぜ合わせたりしちゃってるんですね。(^^;
監督自身のオリジナリティは何にもないんだな~とも思いました。
エヌガール
アリーテ姫、わたしも気になってた作品で、BSで去年やっと見たんですが、わかりやすくよくまとまっていました。美しくない王女、という設定ですが、チビなだけで、けっこうカワイイ(笑)。ブックオフ系で原作もみつけて立ち読み(笑)したんですが、ちょっと別のお話、別のテーマになってしまっていて、やっぱり原作のほうが好きでしたけども。。。
原作は、やはり美貌の持ち主ではない王女が、自らのすぐれた知恵でさまざまな問題をのりこえていく冒険というかんじだったと思います。つまり、ふつうのおとぎ話だと、美しいだけで、王子様が来るのを待つだけですから、みかけがどうとかより、自分で行動する王女、というところにポイントがあったお話だったと思います。女性の作だったような。
ゲド戦記。。。とほほですね、テレビでやるのを待つでしょう。
期待しないで漫画家の知人とみた「ブレイブストーリー」が、案外よかったりしました。ダークなキャラクターにも魅力があって。とくに絵はものすごい技術です。
さとぴー
今の所、ゲド戦記には関心があまありまませんが、酷評がでている事には興味があります。
ポイントとしては、手塚治虫を批判するあまりに、書いた追悼文ですが
「虫プロは嫌いです。嫌いなだけではなく間違っていると思います」
虫プロというのは別に手塚治虫だけが仕事をしていた訳ではないアニメーション制作会社だし、一度倒産した後はサンライズやマッドハウスにほとんどのスタッフが流れ所謂アニメブームを作ったと解釈しています。
そのため、宮崎駿さんの言動やジブリの仕事についてはこの手塚虫プロ批判と照らしてどうなのかという見方をしてしまいます。
話がそれてすみません。
虫プロ批判のジブリが酷評にさらされているとなると、これまでの言動はどう今後評価されるのかな?とそんな事を思ったという事です。
よこやまさんの言いたかった事とちょっとずれていてすみません。
匿名
これだけたくさんの人が
この映画について語ってる
それだけで ある意味すごい引力のある映画ですよね。
「ジブリ」という名前は怪物のようですね。
良くも悪くも世間の目を強引に向ける事に長けている。
いいか 悪いか
好きか 嫌いか
映画にジャッジを下すのは観客ですよね。
久しぶりに「アリーテ姫」や
「銀河鉄道の夜」を観たくなりました♪
よこやま
>円卓さん
初コメントありがとうございます!
原作知らない人にとって、あの作品はどうなんだろうって?っていうのが私にはどうしてもわからないのですが、円卓さんもやっぱり酷いって思ったのですね・・・。
原案が宮崎駿「シュナの旅」というのは事前に知っていたのですが、そうやってクレジットされる宮崎駿も気の毒な気がしてしまいました。
いろんなものの寄せ集めという印象でしたね。
匿名
宮崎駿と言う人物が好きではないのでジブリ作品もあまり見てないのですが、宮崎作品というブランドが肥大化する余り傲りが生じて原作をも軽んじてしまったんでしょうかね。
こんなところに彼らの他者へのリスペクトのなさ(そんな匂いを感じるので嫌いだったのですが)がよく現れてる気がします。
よこやま
>エヌガールさん
あ、そうですね。「アリーテ姫」原作が有名なんですよね。私は未読ですが、原作はかなり明確にフェミニストの視点で書かれてるそうですね。メルヘンの男性中心的な構造によって、女性たちは子供の頃から受動的な態度を教え込まれる。だからその構造を壊さないといけない・・・という考え方でフェミニストたちによる新しい童話作りが流行った時期があったそうです。その中でダイアナ・コールスの「アリーテ姫の冒険」は読み物としても作品として成功してる数少ない作品なんだとか。
アニメーション版からも、「お姫様はずっと待っているもの」という童話の基本的なスタイルを壊そうとしてる意志が感じられました。女性の視点からだけでなく、「自分の人生は自分で行動してつかみ取っていかないといけない」ということを解釈を広げてテーマにしてあったと思います。展開が地味なんですが、何度か繰り返してみてると、本当に丁寧に作られててびっくりします。
ル・グウィンも筋金入りのフェミニストですよね。ル・グウィンの考え方は、狭義で攻撃的なフェミニズムとは違うと思いますが。「映画 ゲド戦記」には、たくましい女性が出てくるだけで、そういう視点は微塵も感じられなかったです。
よこやま
>さとぴーさん
私も漫画家としての手塚治虫は好きですが、アニメーションの分野での手塚治虫はあまり好きになれません。その後に残した功罪は大きいと思います。手塚治虫によって、日本のアニメーターの労働対価は格段に落とされて、今日に至っても、アニメーターたちの給料はマクドナルドのアルバイト料よりも安いという、劣悪な労働環境を招いた張本人だと思います。
そういう労働環境では優れた作品を作り続けることはできないという考えで創設されたのが「スタジオ・ジブリ」なんだと理解しています。彼らががんばることで日本のアニメーションの業界のあり方を改善していきたいという理念が、当初はあったんだと思います。でも結果的にはジブリだけがエリートで、その他はまったく状況が改善されない、むしろ格差が広がってるという状況になってしまいましたね。今回の酷評の嵐は、そういった業界内での反発ややっかみもあったんだろうと思います。宮崎駿が悪いわけではないと思うのですが、結果的に「スタジオ・ジブリ」を維持するために世襲が導入され、「ゲド戦記」を作らないといけなくなったのは、大変不幸な出来事だったと思います。そういう意味で、日本のアニメーションは未だに虫プロの残した功罪の延長線上にあるのかもしれませんね。
よこやま
>匿名さん
えーっと、匿名になってしまってますが・・・
長い文章読んでくださってありがとうございます!
おっしゃる通り、こんなにもたくさんの議論を呼び、多くの関心を集めたことは、特筆すべきことだと思います。そういう意味だけでも、この「映画 ゲド戦記」を作った意味があったと思います。
ただ関心を集めた理由は、原作の力、スタジオ・ジブリというブランド力、これまでの宮崎駿の作品の力、宮崎親子の対立というニュースを利用した広告会社の力、そしてもちろんこの映画自体の魅力と、いろんな要素が混ざってると思います。その辺りが混ぜこぜの形で、この映画の話題性ばかりが広がっていくことに、私はずっともやもやした気持ちがあって、こうやって長い文章の感想を書いたりしてみたのでした。
けれどもやっぱり、「映画にジャッジを下すのは観客」であるのは、本当にその通りですよね。私はどうしても原作からの視点からしかこの映画を見れませんが、余計な先入観のない人達の感想を、いろいろ聞いてみたいなぁって思ってます。
よこやま
>匿名さん
もう一人、匿名さん・・・う〜ん、このブログの方に問題あるのかなぁ。
すみません。
私は宮崎駿のする仕事に、ある時期までは思い入れがあったのですが、今はそんなに好きでも嫌いでもないという感じです。もちろん優れた作家であることは間違いないと思いますし。今回の「映画 ゲド戦記」の制作に至った経緯は、「スタジオ・ジブリ」という会社としてのお家事情があったようで、そのこととを宮崎駿の社会的な影響力とは、切り離して考えてあげないと、ちょっと気の毒な気がします。
経営的な判断と作品のクオリティとどっちを優先されるのかという問題は、なんだか陳腐な話ではありますが、映画業界には切っても切り離せない問題でもありますよね。「スタジオ・ジブリ」という企業が、今後どういう判断をするのかが問われてるのだと思います。
そしてその映画楽しませてもらう私たちは、その裏事情はともかく、出来上がった作品を観てちゃんとその中身の部分を批評していくことが大事だと思うんですよね。
さとぴー
>日本のアニメーターの労働対価は格段に落とされて
虫プロに東映動画から人をひきぬくためにアニメーターの労賃をあげた結果、東映動画のアニメーターの労賃もあがっていたし、本当にアニメーターの労働条件を虫プロがひきさげたのか?という見直しがなされはじめています。
あと、たさくさんありますけれど論争になりかねないので割愛w
*ミトン*
最後の匿名は
私でした。
ごめんなさい!
名前入れたつもりだったのですが・・・
*ミトン*でした。
カナディア
実はジャムさんの他にもマイミクにいる方々が「ゲド戦記」について多くを述べていて、気になってはいるのですが、本も映画もまだ、な私です。これだけ論争になっているとも知りませんでした。でも「生」と「死」や人生の深いところをもりこんであるなら、これは原作をまず読まなきゃな。と思いました。読んでみようと思います。
本も映画もまだなので何も言えないですけど、ジャムさんが
書かれた以下の意見↓ 共感です。思わず未来を憂いてしまい胸が痛くなりました。
【ひとつはっきり言えることは、単純な言葉と、単純な構造のメッセージしか、人が受け取れなくなっているのだとしたら、それは一つの作品の善し悪しを論じるとは別の次元で、深刻な事態だと思うのです。】
よこやま
>さとぴーさん
実際にあの当時どういうことが起きたのかは、きちんと検証されるべきかもしれませんね。虫プロの初期は高給取りの会社だったそうですし。ただ、結果的に今日までアニメーターの労働条件は低い状態に据え置かれていて、その起点となった時代の業界の中心に虫プロがあったわけで、その象徴的存在として手塚治虫への批判が続いていくのは当然かなぁと、私は思います。押井守もはっきりと、手塚治虫の責任が大きいと言ってます。実際どうだったのか私にはそれ以上わからないのですが。さとぴーさん、その辺り詳しく検証してぜひ文章起こしてみてください!
よこやま
>ミトンさん
あ、やっぱりそうでしたか。
「アリーテ姫」「銀河鉄道の夜」とあって、
そうかな〜って思ったのですが。
ゲド戦記の話は熱くなりすぎました(笑)
よこやま
>カナディアさん
こんな長い文章、最後まで読んでくださったようで、本当にありがとうございます!私の周りでもこの映画についていろんな声があって、私は黙ってるつもりでしたが、やっぱりちゃんと観て、観たからにはちゃんと自分の言葉で感想書かなかればって思ったのでした。少し書くつもりがこんなに長くなってしまって(笑)
カナディアさん、「ラピュタ」が好きだって、以前どこかに書かれてましたよね。だったらこの「映画 ゲド戦記」を観るよりは「ラピュタ」を2回観た方がいいと思います。そして機会ありましたら原作の「ゲド戦記」ぜひ読んでみてください。きっと気に入ると思いますので。「ラピュタ」も「ナウシカ」「千と千尋」「もののけ姫」も、宮崎駿作品の世界観のベースになってるのが、「ゲド戦記」なのですから。
さとぴー
論旨がずれた気がするので、これだけ書いておきます。
コミックボックス1989年5月号の宮崎駿手塚治虫追悼文は、坂口尚や富野喜幸など虫プロスタッフの作品も否定したものだと思っています。
よこやま
>さとぴーさん
う〜ん、なんだか話がずれてしまいましたね。私はその追悼文を読んでいませんし、宮崎駿が正しくて、手塚治虫は悪者だなんて言ってるわけじゃないんですよ。ある時代に業界の中心にいて、影響力が大きかった企業があったとしたら、後の時代にその「功」の部分と「罪」の部分についていろんな意見が出るのは当然だと思うんです。その企業の経営体質がどうであったかということと、その会社がつくり出したもの、その会社の企業文化、その会社に所属した社員の資質がどうだったかは、みんな別の話だと思います。アニメーションの世界のことでその功罪について語られる時、手塚治虫が引き合いに出されるのは、PCの業界のことでは、必ずビル・ゲイツが・・・って言われるのと同じだと思います。タブーは作らない方がいいと思います。
虫プロがなければ今日の日本のアニメーションの隆盛はなかったと、私も思っていますよ。
うと
「ゲド戦記」は未だに読んでおりません。
読みたくなったけど、まだまだ、手に取る時期ではないようです。映画をみるかどうか、なやむ所です。ハウルでがっかりしたので…。原作と映画は違うというのは私も分かります。でも原作の一番大事な部分、作者のメッセージを大事にしてほしいし、映画化されたときに、もっと何かプラスされていたら、うれしいです。うわっつらだけを頂戴したものをつくって欲しくないな。映画って、もっとすごいことができるもんだと思っていたけど、最近がっかりする作品が多いです。
よこやま
>うとさん
原作に思い入れある作品の映画化って、心情的に受け入れが難しいですよね。
どんなに上手につくってもらっても、やっぱり不満が残ったり。
でも「映画 ゲド戦記」は、上っ面だけでもいいから、原作を尊重してほかったです。そう思ってしまうくらい別物でした。
うとさんにも原作の「ゲド戦記」はぜひ読んで欲しいなぁ。特に2巻を。
「出会う」っていうことは、こういうことなんじゃないかって、深く考えさせられます。普通のファンタジーとはかなり感触が違う作品なんですよ。
ロッキー
おお、さすがあれだけの広告を打っただけはありますな。
面白くないにもかかわらず、これだけみんな書き込むとは。
「シュナの旅」、是非宮崎駿監督で映画化して欲しいモノです。
実は、家で飼っているジャックラッセルテリアの雄に「シュナ」、雌に「テア」と名付けてあります。
もう、5歳になりますが、なんとも落ち着かない・・・
よこやま
>ロッキーさん
「シュナの旅」ご存知なのですね。私もあの作品描いてた頃の宮崎駿が好きでした。最後に作る作品は、「シュナの旅」であってほしいですね。
「映画 ゲド戦記」のことは、私は原作に思い入れありすぎて熱くなるばかりに、少し厳しいことを書きすぎたと反省しておりました。自分の感想や論評は、結局「原作と違う」ことに憤ってただけだったなぁと。
普通に観れば、あの映画もそんなに酷評されるほどではない気がしてきました。平凡な作品ではありますが。ただやっぱり、あれだけの大作の煽りを受けたからには、いろいろ厳しいこと言われるのも当然だろうとも思います。次はしっかりと自分の土俵で、自分なりのテーマで、借り物の題材の継ぎ合わせではない作品を作って欲しいなぁと願うばかりです。
・・・あ、結局また厳しいこと書いてしまった(笑)
ロッキー
原作を愛していればいるほど、映像化されたときのズレが大きいですね。
昔で言えば「幻魔大戦」なんかもそうでしたし、近頃では「蝉しぐれ」なんかもそうだと思います。
まだ、日曜日の夜にやっていたりする、NHKラジオのラジオドラマなどは、映像のない、想像世界での疑似体験をさせてくれるので好きです。
最終的なところでは、原作は原作、映像作品は映像作品として、別物と解釈するしかないんでしょうね。
映像ではないですが悲惨なところでは、宇宙戦艦ヤマトの最初のシングルレコードのB面のドラマ音声で、時間の関係か、ドメル将軍がヤマトの艦底で自爆するところで終わります。
素直に聞くと、ドメル自爆=ヤマト沈没 になってしまいます。
制作スタッフでだれか、「いくらなんでも!」と、止める奴はいなかったのか、今でも不思議です。
デスラー総統万歳。
よこやま
>ロッキーさん
「幻魔大戦」、なつかしい!
私は小説読んでなかったですが、石森章太郎の漫画だけ読んでました。
映画公開された時は私も「なんだかな〜」って印象だったのですが、
いつだったかひさしぶりにTVでやってるの観たら、当時としては結構がんばって作った作品だったんだなぁって思いましたよ。
ヤマトのドラマ音声入りのレコードなんてあったんですね。
まぁ当時は「たかがアニメ」って認識だった時代だと思うので、レコードの制作会社がストーリーも知らずに適当に作ったのかもしれませんねぇ。
でもドメル将軍との決戦は一番盛り上がる場面ですよね。
TV版を切ってつないだだけの映画版の1作目も、ドメル将軍との決戦でほとんど戦いが終わってるようでした。デスラーよりもドメル将軍の方が悪役の主役?って展開になってましたよ(笑)